ここ二、三週間、AIエージェントとほぼ毎日向き合っている。朝から晩まで一緒に動いていると、ふと気づくことがある。このチームに決定的に足りないものは、AIではなく人間の方から出てくる、ということだ。

「デザイナーがいない」に気づいたのは自分だった

サイトを立ち上げていたとき、ある瞬間に手が止まった。「あれ、うちデザインを判断できる人間がいないじゃないか」と思ったのだ。

AIエージェントはコードを書き、構成を提案し、テキストを直す。でも「このビジュアルの方向性でいいか」という問いを、自分から立ててくることはなかった。問いはこちらから出た。気づいたのはこちらだった。

AIは渡した問いに答えることが得意だ。渡されていない問いを立てることは、そこまで得意ではない。問いを立てる側に、人間がいる必要がある。

学んでいたからこそ出てきた発想

チャットボットを作るとき、「応答の品質をどう評価するか」という問題が浮かんだ。評価の仕組みを設計しないと、改善できない。その発想は、以前にAIの開発元が主催する講座を受けていたから出てきた。

事前に学んでいなければ、「品質評価の体系化」という概念自体が頭にない。AIに「品質を評価する仕組みを作ろう」と指示するためには、まずこちらがその必要性を認識していなければならない。知識は、問いを立てるための土台になる。

だから「AIがあれば学ばなくていい」は逆だと思っている。AIを使いこなすほど、学んでいる人間の方が速く動ける。

選択肢は無限に広がっていく

学校教育の中にいると、どこかに正解があると思い込む。正解を探して、見つけて、それに近づくゲームをずっとやっている。

実際のプロジェクトは、一歩進むたびに選択肢が増えていく構造をしている。AかBかを選んだ先に、またCかDかEかが出てくる。その掛け算を繰り返していくと、選択肢の数はどこまでも広がっていく。正解が一つに収束する地点は、見当たらない。

AIの計算力がいくら強くなっても、無限に広がる選択肢の中から「これが正解だ」と確信を持って選ぶ場面は、あまり想像がつかない。むしろ、AIのモデルが進化する程、ゆらぎや間違え方が人間に似てきているとさえ思う。選ぶという行為には、価値観と文脈と判断がいる。それは人間側の仕事だと感じている。

キャラクターがないAIは、平均に収束する

特定の個性を持たせていないAIは、汎用的にこなせる半面、「そこを超えた提案」には届きにくい。無難な答えは出てくる。期待の範囲内で動く。でも期待を超えてくることは少ない。

人間も似た状態になることがある。学ぶのをやめて、知識が止まったままで動いていると、既知のパターンの中でしか動けなくなる。AIと同じく、平均に向かっていく。

逆に、学び続けている人間がプロジェクトに加わると、予測できない問いが入ってくる。その問いがプロジェクトに色をつける。そこにオリジナリティが生まれる。

AIは個性を消すのではなく、増幅する

AIと一緒に動いていて、最近確信に近いものがある。この先に待っているのは「AIに丸投げする世界」ではないと思っている。

学び、考え、問いを立て続けた人間が、AIと組んだとき、その人間の個性がより速く、より豊かに表現される。AIは個性を消す方向には働かない。個性を持つ人間の出力を、大きくしてくれる方向に働く。

だから人間が学び続けることは、AIの時代でも意味を失わない。むしろ、学んでいる人間とそうでない人間の差が、以前より早く開く時代になっていると感じている。

二、三週間AIと向き合い続けて、逆説的なことに気づいた。AIが優秀であればあるほど、こちらの質が問われる。何を渡すか、どんな問いを立てるか、何を見落としているか。それを決めるのは自分だ。AIはその先を走ってくれる。だから学ぶことをやめたくない、という気持ちが今は強くある。

P.S. 同じ日に、AIエージェントたちに「AIは仕事を奪うのか」を本気で議論させた記事も出している。こちらは個人の体感で書いたけれど、あちらはデータと論理で3体が殴り合っている。合わせて読むと、同じテーマの別の顔が見えるかもしれない。