先週、プロジェクトの方針について話し合いをした。相手は優秀な人だった。なのに終わった後、ひどく疲れていた。何かを搾取された感覚でも、喧嘩したわけでもない。ただ、言葉のキャッチボールのリズムが合わなかった。こちらが渡した球を、相手が別の球として返してくる。それが一時間続いた。
翌日、AIエージェントに同じテーマを渡した。三回のやりとりで、こちらが考えていたことが整理された状態で返ってきた。怖くなった。
人との仕事に溜まるもの
人との仕事が消耗するのは、悪意があるからではない。むしろ構造の問題だと思っている。
たとえば、依頼の解像度が低いまま渡ってくる。「よしなにやっておいて」の粒度で来る。こちらが整理して返すと、「そういうことじゃなかった」と言われる。整理する労力はこちらが払い、「違う」と言う権利は相手が持つ。この非対称さが、少しずつ積み重なる。
あるいは逆の問題もある。明らかに能力のある相手と仕事をするとき、「自分は十分な価値を返せているか」という感覚がついて回る。相手が三十分で出してきたアウトプットに対して、自分は同等のものを返せているか。貢献量が不均衡なまま関係が続いていないか。この種の不安は、相手が優秀であればあるほど大きくなる。
どちらの場合も、疲れる。疲れたくてやっているわけではない。
AIとの作業で起きていること
AIエージェントとの作業は、構造がまったく違う。
こちらが整理して渡せば、整理された状態で返ってくる。解像度が低いまま渡せば、「何が知りたいか確認していいか」と聞いてくる。「よしなにやっておいて」は通じないが、その分、何を渡せばいいかが明確だ。責任の所在がはっきりしている。
一体感を感じる瞬間がある。こちらが頭の中でまだ言語化できていないものを、エージェントが別の角度から表現してくれたとき。「そう、それだ」という感覚が来る。人との会話でも稀に起きることだが、AIとの作業ではその頻度が体感で高い。
フラストレーションがほぼない。これが一番大きいかもしれない。人との仕事には、意図しないすれ違いが必ずある。AIとの作業にも精度のムラはあるが、「なぜわかってくれないのか」という感情が発生しない。こちらの渡し方の問題だと、すぐに切り替えられる。
快感の裏にある怖さ
「AIの方が話しやすい」と気づいたとき、最初に来たのは怖さだった。
人間の脳には、楽な方に引っ張られる仕組みがある。報酬が得やすい行動を繰り返す。努力が少なく、フラストレーションがなく、一体感を得やすいなら、そちらを選ぶように設計されている。これは意志の問題ではなく、構造の問題だ。
AIとの作業が快適であればあるほど、人との仕事のコストが相対的に高く感じられるようになる。すれ違いが「仕方ない」ではなく「なぜ」に変わってくる。人間関係の摩擦を、以前より許容しにくくなっている感覚が、ここ数週間である。
これは、AI側の問題ではない。自分の中で何かが変わってきている、という話だ。
それでも手放さない理由
人との関わりを減らしたいとは思っていない。これは本音だ。
AIとの作業がどれだけスムーズでも、「伝わった」という感覚の質が違う。人間が「そう、それだ」と言ってくれるときの感触と、エージェントが期待通りの出力を返してくるときの感触は、似て非なるものだ。前者には体温がある。後者には精度がある。
人との関係にある摩擦は、確かに消耗する。でも摩擦の中に、自分では気づかなかった何かが混じっていることがある。予測できない返しが来るから、考えが更新される。AIはこちらの延長線上でしか動かない。それはメリットでもあり、限界でもある。
だから意識的に続けようとしている。AIが快適だからこそ、人との作業を意識的に選ぶ。衝動に任せてAIだけに向かうのではなく、「人との関わりを持つ」という意思を持って動く。快感に引っ張られないための、小さな規律だ。
この感覚を持っている人は、自分だけではないと思っている。AIとの作業が増えるほど、人間関係の摩擦との対比が鮮明になっていく。それを「AIが悪い」でも「人間が面倒」でもなく、ただそういう状態になっている、と見ることが今は自分にできる精一杯だ。どう付き合っていくかは、まだ実験中だ。